『愛の反対は憎しみではなく、無関心』

 これまで日本政府のアメリカ追随、即ち、市場原理主義礼賛や非正規雇用増大によるワーキングプアの問題などをこの随筆で批判して来た。
 それに対して、私の意見が過激だの、中には左翼思想だと非難する人間もいた。

 しかし、アメリカのバブル経済がはじけた現在、私の主張していたことの多くはそれ程、間違っていなかったことが証明された。
 マスコミも経済学者も世界の政治家達も一斉に反省しきりである。

 2008年12月28日の朝日新聞、オピニオンでは経済同友会終身幹事の品川正治氏が日本の現状を次のように述べている。
 『・・・・・「構造改革なくして成長なし」という成長至上主義の呪縛にとらわれた米国型改革で派遣労働が緩和された結果、労働者が最大の犠牲を強いられている。
 これまで日本の資本主義には、果実は国民が分けるという実質があった。それが修正主義と批判され、果実は株主や資本家のものという考えが幅を利かせた。いったんは回復した景気の実感さえ得られないまま、リストラという名目で労働者への分配は減らされ、浮いた利益を配当にまわすことで経営者の報酬を増す。そういう米国型の経営手法が当然とされてきた。
 非正規労働者を調整のための「物」とみなす風潮の横行に今年、労働者の危機感は高まった。・・・・・・・・・・・経済も人間の目でとらえることができるか。経営者として私は自ら問うてきた。
 ・・・・・・痛みは大きいが、米国型金融資本主義が崩壊したことに安心さえ覚える。あと5年も米国化が進行していたら、経済の変容は行き着くところまで行き、労働者も今以上に商品化されていたことだろう。
 ・・・・・・・・・・・・。
 雇用の確保が成長を遅らせるという反論に対する答えはノーだ。家も借りられず結婚もできない若い労働者は、内需のマーケットから完全に除外されている。彼らの生活の再生産と将来設計を可能にする雇用の保証は、長い目でみて外需頼みから内需への転換を促す要素になるはずだ。
 経営者は本来、資本家のためだけではなく、従業員や代理店など全ての利害関係者のために仕事をするものだ。・・・・・・・・・。』

 ここには日本の経営者の良心があるではないか。この日本の良さを失わせる動きを批判して、何が過激か!何が左翼か!

 そもそも私は白人の合理主義を徹底して批判しているのであり、白人社会で生まれた政治形態としての左翼思想、いや民主主義という似非政治形態自体にも疑問を抱いているのである。

 この随筆コーナーを始めた当初は、本当は日常的な思いを気の向くままに書くつもりであった。ところが、新聞などを読んで怒りがこみ上げてきたときに書かずにはいられなくなって書き始めた。私は学生時代から(社会のことを)知らないことは罪である」という考えを持っていた。人は不幸が自分の身に降りかかって初めて社会の矛盾に目覚めることが多い。現在の派遣社員の首切りも大会社の正社員には、その痛みはほとんど理解できないだろう。難病もそう。難病なんか自分も自分の家族も掛かることはない、とどこかで安心している部分があるだろう。そうやって昔から社会の人間の無関心と無知によって弱い立場の人間は社会から葬り去られてきたのである。そうであってはいけないから私は昔から知らないことは罪である」と考えて、極力、社会のことに関心を持つようにしてきたつもりである。

 表題の『愛の反対は憎しみではなく、無関心』はマザー・テレサの言葉である。来日したときの彼女の話。「日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心です。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」

 私はキリスト教の愛を全く信じていない。しかし、マザー・テレサのこの言葉はキリスト教の枠を超えた普遍性があると思う。日本人の多くは、自分だけ良ければよいと考える利己主義の国になったと思う。
 いや、現在は自分のことも満足にならない、全国民が不自由な思いをする国になったのかもしれない。誰も弱者のことを考えるゆとりのない状況。

 「無知は罪」と私は考えていたが、より根源的には「無関心は罪」であることに気がついた。

(2008年12月30日 記)

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